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2020/05/25

「流水紋」と「無為の美」


【1】私は32歳から72歳までの40年間、近郷の山中を流れる小川に分け入り水と会話し、水に画を描いてもらうことを行ってきました。

何をするにも全てがはじめてのことで、試行錯誤の連続でした。
何故そんなことを・・・?と必ず聞かれます。子供の頃、「時」はどんなに流れているのだろう?
の疑問に自分で答えを見つけたかったからです・・・。

10年を経た頃から、水と会話する楽しさから、水に画を描いてもらう面白さに変化していきました。
水の流れを見て画の完成をイメージできるとその場にしがみついて和紙がなくなるまでとり続けます。
流れの早いところこそ画が緊張します。しかし一滴の墨はアッという間に流れてしまいます。

柔らかい和紙を水面に均等に吸着させるには?
流れが早い所では和紙を合わせる前に墨は流れてしまう?
丁度良いだけの墨の量を吸着させるには?三次元の画をとるには?

柔らかい紙、流れの変化、墨の濃淡、作業の姿勢、濡れた和紙の始末など同じ状態は2つとしてありません。



【2】一枚毎に違う創造性が必要なのです。

それを楽しんでとり続けていると、水の方からいい画を現してくれるようになり、このことから私は「水が描く」と言うようになりました。

「作者は水」なのです。

私は画の出来上がりをイメージするだけです。
後は流れに任せます。

平成18年の春。飯能市の有間ダムの上流で、不思議な体験をしました。
一枚の和紙に人物像が現れたのです。有名な画家がある意図を持って描いたと言ってもいいほどの素晴らしい画です。
しっかりと大地を踏ん張り、大きく開いた目で何かを見つめています。なぜか右目はしっかりとつむっています。
そして大きく開いた口で何かを叫んでいます。
つむった片目、開いた口それぞれがつくり出す皺の線まで克明に描かれ、まるでルネサンスの彫刻のようです。
これだけの画を流れる水が1~2秒の瞬間に描いたとは・・・
誰も信じてくれません。私はこの人物像が叫んでいる言葉を聞きたい。何かを伝えている。しかし聞こえて来ません。
1ヶ月ほど、私は毎日見つめて過ごしましたが、この画は私の手元に置いておくものではないと思い、京都の清水寺に相談に行き、結果「奉納することに」なりました。  

現在、清水寺寺務所で申し出に応じて、多くの方々に見ていただいています。見た人が、「ありがとう」といってくださるので、「ありがとうさん」とも呼ばれています。



【3】“誰でも見ているが、まだ誰にも見えていないもの”「無為の美」

自然界の中にある植物の発芽、成長、開花等の過程で見られる瑞々しさや、
色の鮮やかさ、形の優雅さには人智を超えたものがあります。
それらの一つ一つは、それぞれの種によって守られ、維持されています。
どれもがひ弱で、儚い存在ですが、その盛には、与えられた生命をひたすら活かそうと逞しく変身した姿には、感動を覚えます。
どれ一つとして中途半端で、途中放棄しているものを見たことがありません。

ひたすら生きようとする姿に美しさを感じます。それを「無為の美」と私は呼んでいます。



【4】水の流れは「無為の美」    

山の谷あいを流れる川は山の恵みを運ぶ役割をしていますが、源流から河口までを一つの生き物として見ることができます。
途中の曲がり角、合流、落ち込みなど、それぞれでの流れは一刻一刻変化していて、その流れの変化が、一本の川を生かしています。
流れは雨や、風や、小石の動き等によって微妙に変化し、1ヶ所が変わればその前後左右の流れも微妙に変化してその周辺の流れをスムースに整えます。
そのように多くの箇所での微妙な調整が一本の川のいのちを生かしているのです。

それらの働きは「無為の美」そのものです。
だから・・・、川の流れはどこを見ても美しい。



【5】「無為の美」の大切さ

美は自然界の中に当たり前に存在しているので、なかなか出会えません。よって求めることが必要です。
美を発見し、感得し、その美を日常生活の中に取り込み、実践し、納得していくことにより、人は真我の姿で己を社会に活かすことができます。
現在のように「美?」が街の中に氾濫する前は、心に映る美に出会うと誰もが「わ~、きれい」と感嘆の声をあげ、涙さえ流していました。
子供でさえ「きれい」の対象を親や先生が教えていないのに・・・何故か知っていて、その「わ~きれい」が人としての心を育くんできたのです。

それは情緒につながる。
こころの喜びを欠いては、いのちは生きていけません。
美の体験・創造は求めていくことで、より深く進化していきます。「美」こそ、人類に与えられた歓びであり、真実です。


【6】「水は36億年水の真実を生きてきた。人は人の真実を生きているか?」

これは人物像の大きな開いた口から私に聞こえてきた言葉です。
私は水の真実?・人の真実?を明らかにしておくことが、私の役割だと強く自覚して多くの人と対話してきました。


「水の真実」とは、地球上の全ての生命体のいのちを生かす。原始地球の0から現在870万種の生き物が生きている。


「人の真実」とは、与えられた能力を駆使し、地・水・火・風と共生して永遠の地球を創造していく。


そこを見据えて、人としての能力の純度を高めていくことが大切になります。


人の「本」はいのち「質」はこころ
この進化した二つを後世に残す。

人はどこから来てどこへ行くのか?

人は何をしに来たのか?を常に原点に持って進化していくことが大切です。



【7】流水紋は「いま・ここ」の表現

流水紋の線は純粋で、それゆえに形も美しい。
それは他と共生しようとする水の徳に通じます。

流水紋を鑑賞するには、己を整え、こころをやさしさで埋め
真我の力に頼る。そこに現れる美はいのちの生き様であり尊さであろう。

「流水紋」の真価を理解するには、まだまだ時間がかかります。


21世紀の「こころの時代・共生の時代」を正しく理解し、実践し、
人類それぞれの生き方が安寧になるまでは相当な苦しみが必要でしょう。


「己のいのちに向き合い、いま・ここのいのちをいきいき生かすことをひたすら行う無心さに美は宿る」


「水はいのち・いのちは美しい」



いのちは美しいものが大好きですから・・・

                     完

2018/12/25

2018年の出来事

1. 13年間続けてきた「タオの会」を私の病気(パーキンソン病)で約一年間休んでいましたが、再開いたしました。

多くの人達の叱咤激励と日々のリハビリにより再開できましたことは喜びを超えて、これからをどう生きるかということに強いエネルギーを持って私の心と身体に成果を与えてくれました。
特筆すべきは11月17日京都清水寺で行なった「いのちの法要」に全国から150名の人達が集まってくれたことです。参加した子供も父も母もそれぞれに会いたい懐かしい人の面影と言葉に包まれ、いのちがいきいきとしたよろこびのひとときを過ごせた。












2.タオの会イン狭山ヶ丘
9月23日・24日2日間の集中講話を実施。
私の体力を心配して各地から受講者が30名集まってくれた。
二日間通してのタオの会は初めての事で、やはり集中して取り組むことができ、良い成果が得られた。 私のスタミナにも自信がつき「タオの会」を再開するきっかけとなった。




2018/03/15

天と地の間に何か一つの意志が存在ている

天は今回「人」をよこした。
いままでも、これは天の意志だと確信するほどの事が度々あった。
ダイヤモンドでデ-ビアス社との協賛の時も、比叡山延暦寺戒壇院とのご縁も、流水紋の人物像出現、また清水寺での展覧会の時も、ルーブル展の時も、それぞれの事が大きく進展する時に、私が必要とする物、人、事が突然現れた。

昨年病を患って以来、私には、この人生でやり残している流水紋があると思い悩む時が多くあった。次の世代に繋がるようにするまでは死ねない。
その可能性にかけた9カ月のリハビリと服薬によりなんとか歩けるほどに回復し、さてこれからどうするかと思案している時に天からの電話があった。しかも私が明日帝国テルに行ってみようかと何気なく思った翌日の事である。

過去に一度も会った事もない人とのご縁である。
しかもその人はアートをプロデュースすらことは初めてとのこと。
人と人が何か大きな力によつて出会い、お互いを信じてそれぞれの力を存分に発揮する。
それは偶然な事ではない。天がそうしてほしいと願っていることの現れなのだと信じる。
そうして出来上がった企画が、次のように実現することになった。
それだけに多くの方々に見ていただきたいと切望してやまない。


帝国ホテルプラザ35周年記念企画「アートサロン」
水のつくりだす文様に“時の流れ”を見い出し40年に
亘って追い求めた唯一無二の「流水紋」の作品展

■重富 豪「時の流れ」展

  • 期間 2018年4月20日(金)~29日(日)11時~19時
  • 場所 帝国ホテルプラザ2階 「愛でるギャラリー祝」
  • お話会 22日(日)・ 28日(土)14時~15時  ※会場スペースの関係でお話会はプラザ会員の方を優先します。
  • トーク内容 川の源流で生まれたばかりの水の流れを和紙と墨で瞬間的に切り取る絶対的な「いま・ここ」の表情について。


帝国ホテルプラザへのアクセスはこちらのページを御覧ください。http://www.imperialhotel-plaza.jp/wp/map/

2017/04/21

「清水の日」慶賛 "いのちの水に感謝"「時の流れ展」を終えて 4/1~3

毎年恒例になっている展覧会ですが、今年は「盆栽と流水紋」の競演でした。
盆栽と競演したいと思ったのは3年ほど前になるが、なかなかご縁がなくその内にと・・・待つことに決めていたのだが、突然最良なご縁が訪れた。
しかも盆栽界の若手ナンバーワンの「鈴木伸二」さんである。
5年連続で内閣総理大臣賞を獲得した実力者である。
彼の盆栽園(小布施)を訪ねた日も忙しい時間の合間をぬって、細やかな心配りのおもてなしを戴いた。特に目を引いたのは若い弟子たちの行儀作法である。挨拶からお茶の接待、何気ない所作の一つ一つが板についている。これらは急にできるものでは無い。日頃からの教育でできあがった躾の結果である。それは鈴木さんの教育である。そこにまず惚れた。
これはただお願いするしかない。盆栽の何一つもわからない私がとやかく言うことはない。彼にすべてを任せる展覧会にしようとその場で覚悟した。

その通りの状態が起きた。展覧会の設営の3月31日の前日私が肺炎になりドクターストップで京都に行けなくなるアクシデントに見舞われた。一瞬今回の展覧会は中止かと思ったほど混乱した時、鈴木さんとあのスタッフにまかせればいいと思ったとたん、グーと気が楽になって、眠り込んでしまった。

4月2日会場に行ってみると、完璧なまでの盆栽の配置と会場全体の品格を高める調和は私の予想を超えたものだった。会場に来ていただいた方々のご意見は、どなたも「素晴らしい」「感動」と称賛の言葉でいっぱいでした。盆栽の持つ数百年のいのちのつながりから表れる重厚な生命力とそれを引き出す盆栽家の細やかな愛情の調和が美しい時の流れを表現していました。盆栽を植物として観るか、人と同じ「いのち」あるものとして観るかによってまったく存在の姿が違ってきます。「いのち」の尊さを感じていただけたらと思い、今回の展覧会を企画したのだが大成功でした。

いのちの尊ささえも、現代社会の忙しさにややもすれば忘れがちになる日々、人が人らしく生きることの本質として「いのち」に向き会った生き方を心がけたいものです。
会場にお越しいただいた皆様に心よりお礼を申しあげます。










(c) 野崎 悠

今回の展覧会その他写真はこちらのページにございます。
http://www.be-stream.net/japan/biography/b2017.html#2017kyodo

2017/03/06

タオの会・春の清水寺

タオの会・春の清水寺
今回の展覧会は900年続いている日本文化の真髄「盆栽」を通して「いのちと時」を実感していただくために企画いたしました。
現代の盆栽界で屈指の鈴木伸二さんの好意によるものです。
盆栽の素晴らしさと流水紋との競演を楽しみ、同時に皆さんのいのちに向き合う姿勢をより深く、確実なものにしてくれます。

「盆栽」に想う
人は人の役割を生きている。先祖から受け継いだ「いのち」を未来に役立つよう育て継承していく。
そのため「いま・ここ」の時を大切に生きる。盆栽は数百年の時を、
人と樹木のいのちが共生する。お互い聞こえない声を聞き、見えないところに気を配る。信じあう慈愛のこころが「時のながれ」を形にする。
それ故に「いま・ここ」をおろそかにできない。

「水石」に映す
水石の歴史は室町中期にはじまる。一塊の石から大宇宙を感得する。
禅や茶の湯と結びつき、精神的な深みを持つことになる。
水石の鑑賞は、大自然に心を遊ばせ、森羅万象、自然の風趣風韻を感じとり、幽玄な侘び、寂びの世界へ自己を誘う。


■流水紋展覧会 41日~3日 10時~17時 京都・清水寺 経堂
今回は盆栽と水石とのコラボレーションです。
日本一の盆栽家との共演です。必見の価値あり。